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萩と月

旧盆前の7日、金沢に線状降水帯が発生した。道路を挟んだ家の向かいを流れる農業用水は幅が約1メートル深さは約2メートルほどあって普段は澄んだ水が川底にセロハンでも敷いたように薄く流れているだけなのが未明からの激しい雨で水かさが増し10時ごろに二階の窓から見るともう縁ぎりぎりにまで水位が上がって濁流が波立っていのが見えた。道路から用水へ雨水を流す排水口からは逆に用水の水が溢れ出て融雪装置が流す水のように道路を緩やかに洗っている。やがて雨が小降りとなりお昼ごろには濁流も見えなくなった。九州などの他地域はもちろん市内他所に比べてもなんということはないような雨の降り方だがやはり緊張した。


 梅雨末期のような雨が四日ほど続いたあとの旧盆初日はよく晴れた。いつものウォーキングに出て丘陵公園の芝生広場の上あたりまで来ると左の墓地につながる道から小泉さんが現れた。普通の声では届かない距離からこっちを見ている。手をあげて合図すると向こうもすぐに手をあげた。そのまま行ってしまうのだろうと思っていたら一番近いベンチに腰を下しこっちを向いた。ぼくを待っている。

おはようございます。
おはようございます、ようやく雨が止みましたね。
ホームページ、読みましたよ。
そうでしたか、どうも。

この前会ったとき小泉さんとカメラの話になり話しているうちに「通りがかりの者です」の存在を明かしていた。

ぼくはずっとソニーのサイバーショットとαを使っているんですが、αには200ミリのズームを付けて・・・。
そりゃ重いでしょう。
ええ2キロ程になります、それで暑いからサイバーショットだけにしていたんですが壊れてしまい、10年以上も使っていたかな、それで安いのを探して買ったのがこれですよ。
それはどこのメーカーですか。
さあ、どこでしょう聞いたこともないところで、でも近づいて撮れるので、ただ写すのが難しくて。
難しいって。
手振れがひどいのとオートフォーカスのピントがなかなか合わないんです、でもうまくやるとけっこうきれいな写真が撮れるんですよ。

きのう撮った写真をカメラのモニターで見せた。

カメムシですね。
キマダラカメムシの幼虫です。
よく撮れてる。
写真は、実はホームページを作っていてそこに載せています、始めてもう30年ほどになりますか、Windows98のころからです。
そうですか、で、タイトルはなんというんですか。

というわけで「通りがかりの者です」を教えたのだが、小泉さんはウエストポーチから手帳を出して一番後ろのページを開き、とおりがかりは漢字で書きますか、通りは漢字であとは平仮名なんですね、と確認しながら書いていた。性格なんだろう丁寧なことだ。

 小泉さんのその手帳は歩きながら走りながら心に浮かんだ和歌をその場で書きとめるための手帳でどのページも隙間なくびっしりと和歌で埋まっている。小泉さんは万葉集と古今集をこよなく愛する歌人だった。和歌を語る小泉さんはどこかストイックにも見えたが自分だけの楽しみにしているらしく人に披露することはないと言っていた。

最近書いたページを読みましたよ、それと即身仏も読みました、置賜地方ですか。
「白鷹の即身仏を・・・第一部の番外編ですよ。

驚いた。即身仏を読んだとは・・・。「白鷹の即身仏」は第一部の番外編だから目次では一番下に出てくる。最近の記事を読んだと言っていたが目次も一通り全部見たようで白鷹という地名が目にとまったらしい。小泉さんは福島に2年ほどいたことがあると以前言っていたが東北地方に特別な思いがあるのだろう懐かしそうな表情だった。

メキラ・シンエモンですか、メキラは迷企羅大将のメキラでしょう。
よくわかりましたね。
シンエモンは蜷川新右衛門。
そうです。

これにも驚いた、もっと驚いた。メキラ・シンエモンの由来は「旧友 HP ORIGIN」に書いたが小泉さんがそれを読んだとは言葉の感じ話しぶりからは思えなかった。

奈良にちょっといたことがあるんです、新薬師寺の近くです。
高畑ですね。
そうです、しかし十二神将はすばらしいですね、でも1体だけ国宝じゃないんですよね、惜しい、クビラ大将でしたか。
ええ、そうです、地震で崩れてしまい後補なんですが、ほかのと違和感なくうまく作ってあります。
あの色の剥げた感じがいいですね。
塑像の灰白色の地肌が露出してところどころ色が残っていますがCGで元の極彩色を再現したのを見るとまるで印象が違って今の方がはるかにいい感じです。

なるほどそういうことかと了解したが、しかしそこまで言える知識があるならこれは話せる人だと思い嬉しくなった。そこで高畑にいたのならと一昨年の春に歩いた柳生街道の話をしてみるとただちに「朝日観音、夕日観音」という言葉が小泉さんの口から出て円成寺と言いかけただけで運慶の大日如来と小泉さんは先回りしたからからますますこれはと思い、ぼくが最初に出会った仏像は高校の修学旅行で行った中尊寺の経蔵の渡海文殊だったと話してみるとしかし小泉さんは果たしてついて来れない様子だった。中尊寺の渡海文殊は極めてマイナーな仏像だから知らなくて当然だが渡海文殊そのものの知識があまりないように見えた。が、そこが良かった。皮肉を言っているのでも揶揄しているのでもない。その辺で売っている安物の仏像鑑賞ガイドに書いてあるような好い加減なことを得意気にベラベラ話しまくる輩はお断りだ。

 そのあと話題を変えていろいろ話したが、いけない、いつもより長く話してしまった、と双方気がついてそれぞれのコースに戻った。あとで考えるとホームページへのコメントはなかった。なにかコメントを述べるほどにはおもしろくなかったんだろう。


 次の日は快晴だった。秋晴れのように晴れていた。もう8月も半ばで朝晩は凌ぎやすくなり先日の大雨の前のような暑さではない気がする。丘陵公園の展望台見晴らし広場の下では6月から萩が咲いているが近ごろは花の数も多くなった。萩の上には下弦の月が見える。昼見る月は夜見る月とは正反対だ。雲のない青い空に見える下半分が欠けた白い月は情緒など微塵もないが昆虫の脱皮した抜け殻のように乾いた感じがして夏はこういう月もいい。

 萩と月か。「一つ家に遊女も寝たり萩と月」という句が頭に浮かんだ。市振で芭蕉が詠んだこの句は月明りに庭の萩の花が照らされているのだという。実景ではないともいう。句そのものが現実のことではないことは知られているがその解釈として萩を遊女に月を芭蕉自身に譬えた比喩だというのが江戸時代から正当とされているらしい。この句を詠んだ三日後の旧暦7月15日に芭蕉と曾良は金沢に入るから時期はちょうど今ごろで市振では日中に今日のような月が見えていたはずだ。それならこの句が実景ではないというのなら昼間に見た萩と月を夜見たことにしたのかもしれない。そもそも「萩と月」が夜の景観だと決めることには無理がある。「寝たり」とあるから夜だと勝手に思うのだ。そうだ小泉さんに話してみようか。俳句と短歌はちがうが今度会ったら試しにちょっと意見を聞いてみたい気がした。

 その次の日に早くも小泉さんに会った。小泉さんは丘陵公園の展望台の下の道を走って登ってきた。止まるとすぐに簡単なトレッチをしてこっちに向き直り、どうですか、といきなり聞いてきた。なにか見つけましたかという意味だろうと思ったのでちょっと考えてから答えた。

向こうのあの墓地へ行く道にエノコログサ、ネコジャラシがたくさん生えていますよね、クモヘリカメムシがいっぱいいるんですよ。
花にですか。
ええ、穂についていて、交尾しています、そういう時期になったんですね。
大きなカメムシですか。
このくらいの。
1センチほど、割と大きいですね。
細長いカメムシです、緑色の。

クモヘリカメムシは普通種で珍しいカメムシではないが小泉さんは知らなかった。でも引き金になったようでこのあと話は稲につくカメムシの話しになった。

この前の雨でいもち病が出ないといいのですが稲につくカメムシも問題です。
どんなカメムシですか。
いや、種類はちょっと・・・。
大きなものじゃないでしょう。
5ミリほどの小さなカメムシで・・・。
カスミカメですか。
そうですかね。

ぼくはカスミカメに自信がなかったので家に帰ってから調べると正解だったが稲の害虫となるカメムシがアカスジカスミカメなどのカスミカメムシ類であることは農学部を出ている小泉さんはよく知っているはずだがとっさに名前が出てこなかったのは調子が悪かったのだろう。以前オウレンの名前がなかなか出てこないことがあった。

 話題を変えてみた。

ホームページの続きは読んでみましたか。
いいえ。
そうですね、一般受けしないから・・・。

小泉さんの正直な答えにぼくはきまりの悪さを隠そうとしたが自嘲に聞こえただろう。そこで小泉さんの興味がありそうな記事はと考えた。

鈴木大拙はご存知ですよね、即非の論理について書いているので読んでみてください、意見を聞かせて・・・、いや、それはいいか、それと不退寺も読んでみてください、ウワナベコナベ古墳近くの業平の寺ですよ、古今集のファンなんでしょう。
そうです、万葉集と古今集は大好きで500首ほどを覚えています。
それはすごい、なら是非不退寺を、それから徒然草第40段も。
徒然草は古典の教科書に載っていた段を全部覚えていますよ。
それは期待できますね、それじゃそろそろ。
はい、それじゃまた。


 結局「萩と月」は話題にしなかった。高い空に秋のような絹雲が広がってきのうよりいくぶん痩せた下弦の月は霞んでいた。 2025年8月16日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)




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